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下の娘は完全に左利きだ。
骨折箇所は鎖骨であり、手は無事なので十分に使える。事故直後も鎖骨が折れているのに脱臼もしているのに(脱臼はレントゲンではじめてわかった。そりゃ腕ブラブラになるわな)手のひらニギニギは出来ていたのだ。しかし肩から上腕にかけてのギプスのせいで動きが相当に制限されてしまった。上腕の自由がほとんどきかないため、利き手が使えなくなってしまった。

自分の身の回りのことはかなり自分でできる様になっていた娘である。なのになにかと家族の手助けを要するようになってしまったことがちょっと気に食わないらしい反面、多く手をかけてもらえる幼児らしい嬉しさもあったりするらしい、という彼女なりに複雑な心境といったところか。

しかしごはんくらいはやっぱり自分で食べたいらしく、エジソンのお箸なる便利な代物で、なんとか右手で食べている。

ワタシも相方もいわゆるグー持ちでないにせよ、箸使いはマニュアル通りの美しき持ち方とはさっぱり違いちっとも見本になりゃしないため、普段からこの素晴らしきお箸の左手用を娘に使わせていた。素晴らしきお箸は大人用もあるのだからワタシも相方もそれで正しい持ち方を訓練すればいいのかもしれないだろうが、でも今の持ち方で魚だってきれいに食べられるし豆だってつかめるんだけどさー、と言い訳してみたり。ダメ親である。一見正しい持ち方の人が実は食べるのがヘタっぴだったりするくせに、ワタシに持ち方云々諭そうとしたヤツが実際過去にいたもので、ふん!ヘタっぴのくせに!とかなりワタシ自身意固地になってるかもねかもねー。
ともかく下の娘にはこの怪我を逆手にとって、ぜひ正しく美しき両手利きになってもらいたいところだ。

ちなみに上の娘は基本的には右利きなのだが、幼児の頃は左のほうが上手だったこともあり、現在でも何故かけん玉なんかは左手でしかできないらしい。たぶんちょっと練習すれば鉛筆や箸もすぐ両手利きになれると思う。でも全体的にどうにも変なところで不器用な娘である。



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骨折

下の娘が骨折した。左鎖骨骨折である。
食卓の椅子から転落。家事の最中で目を離していた。親の監督不行き届きは重々承知している。がしかし、まったく目を離さずじっと見つめ続けているってのも不可能なわけで。
鈍いようでいて派手で妙な落下音で気づいたわけである。

我が家の食卓の椅子はそう高さがあるわけではない。そして娘は決して椅子の上に立っていたわけでもない。推測するに、座った姿勢で滑り落ちたらしい。右手には近頃娘のお気に入りのおもちゃが握られていて、どうも椅子から降りようとして、おもちゃを落としそうになったのをフォローしようとして滑り、頭とおもちゃをとっさにかばった故、左肩から落下したようだった。

ギプスで肩周辺をガチガチに固められた娘は、事故の当日翌日はさすがにおとなしくしおらしく、家族の皆が胸を痛める気の毒な有様だった。ワタシも相方も親の責任に苛まれ、上の娘も心配そうで、なにか少しでも気が晴れるようにしてやりたい、と切実だった。
下の娘はみるみるとあっさりと平常時の元気をいとも簡単に取り戻してしまった。
本日骨折治療生活6日目。まだまだ左鎖骨がボッキリ折れている状態にも関わらず派手な遊びをしたがるので困る。来春から幼稚園に通い始めるため、それまでに集団生活に多少慣れさせようかとこの夏から通い始めた体操教室も結構長い間休まなければならなくなってしまったし、公園に遊びに行けないし、退屈しくさっているのだ。
不思議である。骨折状態なのに、痛みなど、なにそれ?美味しいの?みたいな娘である。どうして体操教室に行けないのか、公園で遊べないのか、意味がわからないようである。

つまづいてこけて悪化したりしたら困るので、基本的にお家生活で我慢してもらうしかない。不幸中の幸いといいましょうか、インフルエンザ感染の機会がごそっと減ることになる。いやはや、なんともかんとも。


サバ

大島弓子のエッセイマンガ『グーグーだって猫である』の冒頭に、サバを見送ったときのことが描かれている。
その後グーグーなる子猫と出会って、ともに暮らす猫の数がどんどん増えていって、文字通り猫に囲まれた暮らしを送っているらしい。その登場する猫すべてが猫そのものの姿で描かれている。
たんなる表現方法の変化といえばそれまでなのだが、人の姿のサバは、読者には、氏にとって特別な存在だったのではないか、と思わされるのだ。
もちろん『グーグーだって猫である』の氏の飼い猫たちも大切な存在であることにはまったく間違いないだろうけれど、しかし読者の勝手な受け取り方で申し訳ないのだが、やはりサバは特別だったのだ。この感覚に氏の意はまったく関係がないのでもはや邪推じみていてなんなのだが。

ペットという家族の一員を亡くしていつか新しい家族を迎え入れたとき、亡くなったものへの悲しみと淋しさは薄れるわけではないがその気持ちをただ静かに心の奥に安置するかのようになる。亡くなったものも生きているものも、愛おしさは比較できるものでなく、同じように等しく大切な存在だ。

グーグーと暮らすようになって、無意識にグーグーをサバと呼んでしまうことに氏は罪悪感を感じるように描いている。しかしサバの世話の仕方や同居のルールなどで後悔を感じる氏は、グーグーとの暮らしで同じことを繰り返さないようにして、それについて「二度目の猫はトクである。死んだ猫の分まで大切にされる。ということはサバがグーグーを守っているのだ」と書いている。
これもまた真理だと思うのだ。

ペットの話と人間の話を同じにするのは違うかもしれないが、ワタシは自分の娘たちとの生活の中で近しいことを感じている。上の娘が成長するたびにすべてのことが初めてづくしで、いくら怠け者のワタシでもおたおたとバタバタと不器用に忙しく立ち回ることしかできないのだが、下の娘は上の娘のときのおさらいのようになんとなく楽にこなせることが多い。当たり前だが別の人間であるからして、繰り返しとはいえ別物なわけであり状況も異なることが多い。しかし気持ちに少しばかり余裕を感じることがあるのだ。
ワタシが上と下に感じる思いはそれぞれに別にあって一緒くたではないのだけれど、どちらがどう、というような愛情に強弱とか優劣はないわけである。

『グーグーだって猫である』は時が経つにつれて、サバの描写が無くなった。それは氏がサバを忘れたわけではなく、ただ静かに心の奥に安置するようになったことの表れなのではないかとワタシは思う。



萌えとは別の場所

大島弓子にネコといえば、『綿の国星』とサバである。
『綿の国星』は子猫のチビが見つめる猫社会と人間社会が描かれている。サバは氏の飼い猫の名前で、ともに暮らす日々を描いたエッセイマンガがいくつかある。物語とエッセイマンガという大きな違いがあるのだが、大きな共通点があってどちらもネコが人の姿で描かれている。パッと見ただけならばそこに描かれているのがネコであることに気がつかないかもしれない。実際ワタシがはじめて『綿の国星』を目にしたのはかなり子供のころだったと思うが、一体なんのマンガなのかすぐには理解できなかった。

『綿の国星』のチビは予備校生の少年に拾われた子猫だが、高級長毛種の血を濃くうけているらしく、またチビ自身がなんの根拠があってなのかはわからないが、今はまだ子供で猫の姿をしているがいつの日か人間に変わると信じていて、自分が半人間だと思っているから、ということでとても愛らしい幼い女の子の姿で登場する。のちにあくまでも猫は猫であり、人間は人間であり、そもそもの種が違うのだから猫が人間に変わるということはない、ということを理解するのだが、それでも全篇その姿のままだ。チビの出会う様々な猫たちもそれぞれ人間の姿で登場する。全体が線の細いおとぎ話のような繊細な画で描かれていて、ファンタジックな雰囲気に満ちている。

サバのエッセイマンガは画があまり描きこまれておらず、見る、よりも読む、が主体である。ネコがいる日常を主としたエッセイマンガであるからして、ネコへの親バカっぷりにあふれている、かというと、氏についてはそれは当て嵌まらない。もちろんネコ愛はあふれているのだけれど、一般的なネコマンガの枠には当て嵌まらないといえるのではないだろうか。

大島弓子の世界に慣れ親しんだ読者なら当たり前のものであろうが、夢見るような綿菓子のようにふわふわとしながらリズミカルに言葉遊びを楽しむようでいて、そこかしこからのぞくシニカルな表現。これら大島ワールドの言葉の数々が洪水のごとく溢れ、ネコ萌えを求めるにはちょっと、いやかなり違うのではないかとワタシには思える。

そもそも大島弓子と萌えとは、かけ離れた世界に思うのだ。




「悲しい」のその先

須藤真澄『長い長いさんぽ』は衝撃的だった。

氏の飼い猫ゆずとの生活を描いたエッセイマンガはそれまでに断続的に読んでいた。『ゆず』『ゆずとまま』などである。親バカっぷりが前面にあふれでていて、ゆずが愛らしくて、ほのぼのとおもしろおかしく描かれていて、ワタシはむはーっとネコのいる暮らしを二次元的に堪能させてもらっていた。

ある時本屋で『長い長いさんぽ』が平積みになっているのを見かけた。帯に「ゆずとの最後の日々」とあったので、ああ、とうとうゆずが死んでしまったのだな・・・と淋しい気持ちになった。しかしその淋しいはほんの少しの淋しいだ。そして現実感に乏しいものだ。ゆずはあくまでもエッセイマンガで知るだけのネコなのだ。ワタシのリアルなネコではないのだ。ゆずに対してではなく、ともに暮らし生業の題材の一部ともなっていた家族であるネコを失った作者の気持ちの方がどちらかといえばワタシにはよくわかる気がした。それはとても悲しい辛い別れだったであろう。購入し、自宅に戻って『長い長いさんぽ』を読んだ。それはワタシの想像を超えた作者の悲しみにあふれていた。

そこには、ゆずの病気に対する認識の甘さと死に際にそばにいなかった自分への後悔と嫌悪を狂気的にすら見える姿で当時の作者の様子が描かれていた。マンガエッセイなのでドキュメンタリのリアルな姿ではないにせよ、心情の根本に偽りはないと思う。他人から見れば気がふれたように見えるほどのゆずを失った悲しみである。


ゆずを失って悲嘆にくれる作者はものをまともに口にできないほどの状態だ。しかし立ち直るきっかけなんてどこに転がってるかわからない。
ある日の夕食の風景、ゆずが好きだったサバを焼く。
「ちゃんと食べてちゃんと生きよう。ちゃんと思おう。ゆず、サバ、うまいでサバ」
もっしもっしもっしガガガガと初完食、
と描かれた作者の立ち直りのきっかけはワタシの中でガツンと響き、義父が亡くなったあとにしっかり美味しく食べてこその追悼の意だ、とワシワシ食すように気合を入れた当時の相方とワタシの状態を思い出した。


しばらくして、作者があらたに仔猫を迎え入れたエピソードが続く。ワタシは安堵した。それは作者の心の健全な証だと思った。



いらっしゃいませ。

ツモ

Author:ツモ
30代後半女。
→四十路突入。
→もうすぐバカボンのパパ越え。
→日本女性の平均寿命に向かって折り返し地点あたり。別にそこまで長く生きたいわけでもない。とりあえずの目標はこの先20年くらい。

暴れまわった娘時代の反動か、自宅にひきこもりがち。相方、娘二人と古都の端っこで地味に暮している。


気まぐれにしか更新しないくせに、記事がやたらと長くなる傾向にある。

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