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本年もありがとうございました。

「ガキの使い」見ながら鶏団子鍋食べつつワインがぶ飲みの大晦日ですよ、ひゃっはーぁぁぁ!!

年末年始は相方の実家に帰省する慣わしでしたが、今回は諸事情により自宅で年越し。
お節とか作ったことないし、作っても子供たちはちっとも喜ばないんだろうけど、煮しめくらいはみんななんだかんだで食べるだろうと昼間にコトコト炊いてみたり。
大掃除はロクにしなかったけれど、目に余るほどに散らかっているわけでもないから別に構わない。

下の娘の鎖骨骨折は順調に回復しています。
不況で財布がピーピーでも、年末年始だからと酒を買ったりすることくらいはできてるし。英勲呑んでます。地元の酒です。美味いです。
特別大きな事件が家族にあったわけでもないのでありがたいことです。


気まぐれ更新しかしない拙宅ですが、本年ご訪問して下さった皆様に感謝です。
来春からは数年ぶりにひとりになる時間が少しできそうなので、もう少し更新できればいいなと思っております。書きたいことはいろいろあるんだ。

よいお年をお迎えください。
来年もどうぞよろしく!



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クラシックを身近に

『のだめカンタービレ』がずいぶんと世間一般にメジャーなマンガとなっての一番の影響といえば、クラシックというものが身近に感じた人が増えたであろうことだろう。

根っからのクラシックファンの人々の一部からすれば、「マンガのせいでにわかファンが多くなってうざい」とか「にわかファンのくせに語るんじゃねえ」とか「マナーもなにも知らずにコンサートに来るな」とか、確かにオッケー把握、みたく頷きたくなるような頭を下げたくなるような、ごっもともなご意見もある。マナーが守れないっていうのはこの話に限らずダメダメなことだしね。でもちょっと待った、そこは勝手に敷居をまたげない様にしてもいいんか?みたいなものもありまして。
マンガがきっかけでクラシックを聴きたくなった、っていうのは別に全然悪いことじゃないよね。にわか、っていうのも揶揄しすぎっていうか。よく知りもしないで語ってしまおうとするのはちょっと恥ずかしいことではあるけれど、話題にすることは別に全然悪いことではないんじゃないかと思う。

ワタシは娘のころからちょっぴりクラシック好きだった。
学校のリコーダーとかくらいしか楽器って触ったことねえや、っていう音楽とは無縁な育ちだった。女の子ならばピアノやバレエなんていうのは憧れだったりしてワタシも当然そうだったわけなんですけれども、質素な暮らしをしている自分の家の経済状況は子供でもオッケー把握、って感じだったもんで、そういういかにも金のかかりそうなお稽古事は、そんなんワタシ全然興味ないしー、みたいな面をしてみせていた、今考えると、一歩間違えると卑屈、的な少女時代を過ごしておりましたですよ。別にその反動ってわけではないんですけどね。

かつて毎朝、母親が時計代わりにラジオをつけていた。電波受信状況がいまいちで、唯一きちんと受信できてたFM。で、起きると軽快だったりしっとりしてたりする、どこかキラキラした音楽がラジオから毎日聴こえてくるわけです。それがどういう曲なんだか少しもわかならい。で長じて、それがクラシックだったことがわかったわけなんですが、あの子供心になんとも優雅に聴こえた音楽、ここにワタシのクラシックとの出会いがあったわけで。今思い出すに、古典が多かったような気がするんだけど、一体どういった番組だったのかはさっぱりわからない。
それと少女のころからフィギュアスケートの演技を観るのが大好きだった。
荒川静香金メダル以降、有名選手が演技で使用した曲を集めたアルバムがよく売れたりするようになったそうですが、それすごいわかる。選手の素晴らしい演技を観たならば、その曲をぜひ聴いてみたくなる、当然です。
カルガリー冬季オリンピックから思い入れ大爆発のワタシ。かのカタリナ・ヴィットの名演カルメンはこの時の女子シングル金メダル。今どれだけ技術力が向上していようとも、このカルメンを超えるフィギュアスケートのカルメンはワタシにはない。トービル&ディーンのボレロとか、名演には名曲あり、デス。
CMとかでも印象的にクラシックが使用されていたり、ドラマや映画も然り。クラシックって実は結構身近で耳にする。

のだめがマラドーナコンクールの本選でストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」の暗譜しきれなかった部分をNHK「今日の料理」のテーマをあてて弾いてしまったエピソードは、実際に曲を聴くとなるほど!となる。似てる感じなわけです、メロディが。でも全然違う。
ドラマ化やアニメ化で音も聞けるようになったわけだけど、もし気になった、もしくは気に入った旋律なんかが少しでもあったら、CDとかで聴いてみるともっと楽しい。アニメやドラマではごくごく一部分しか聴いてなかったことがよくわかるし、全体を聴いて印象がずいぶん変わるものだってあります。フィギュアスケートの使用曲なんか、ものすごく切って繋げてだとかよくわかる。

クラシックは確かに勉強してないとよくわからなさすぎる部分だらけだ。でも別に音楽って学で聴くもんじゃあないと思う。極端な話かもしれんけど、例えば野球ファンのオヤジが選手についてや試合語ったりするのはそのオヤジが野球やってなかったらその資格がないんか?みたいなのと同じじゃないか。

ワタシはその分野の学がさっぱりないので、もちろんエラソーなことは全然言えません。でも歴史に名を残す作曲家の面々がごく普通に人間臭さに溢れてる事実を知れば、至高の芸術みたいにむやみに扱う必要ってないような気がする。名曲が食うために作った曲だったりすることもあるみたいだし。もちろんギャラのためでも高い芸術性を追求したものを作ったであろうけれど、それは我々が仕事をやるからにはやっつけではクライアントに提出できない的に同様ではないかと思う。

名曲や有名曲であっても、なんか自分の肌に合わないような気がしたりするものもある。指揮者や演奏者の違いも然り。同じ曲なのに、全然違う曲みたいに聴こえたり。それは昔の歌謡曲のカヴァーを聴いて全然感じが違ったりするのと別段変わりないのじゃないだろうか。同じ土俵に上げんな!とお叱りをうけそうですが。



パリ編について その2

のだめと千秋が焦ったり挫折するのを手を変え品を変え披露するのは長編に移行した時点で必要要素だったとは思う。ただなんともシリアスになりすぎたと思うのだ。クラシックの世界がそもそもシビアなわけであるからして致し方ないのかもしれん。しかしシリアスに描くならばもっと細かな描写が必要だっただろうし、そのあたりの舵捌きの曖昧さは終盤は相当目についた。主人公であるのだめの独白が一切ないのは心理描写が大変難しいことだと思う。あえてそれに挑んだならば、のだめの行動の理由付けの描写を増やすか描写自身を変えるか、方法は様々あったであろうが、とにかくもう少し練れていればよかったのにと思う。

のだめと千秋は恋人となったものの、それぞれが勉強と仕事に行き詰っては悩み、恋も紆余曲折。ハラハラしながらも待ち受けるものがハッピーエンドと想定して熱烈に支持した読者が多くても少しも不思議はない。ならばあのエンディングへの一連の流れが相当に消化不良であろうことは容易に想像でき、収拾のつけ方への作者の技量不足を感じる。賛否両論が発生したとして、お約束的感動を求める読者を黙らせる本当のスマートなエンディングはもう少し時間をかけて描く必要性があったのではないか?

ワタシはエンディングまでの流れに概ね満足しているように述べたが先に述べたようなところが不満点である。
が、巨神兵が出てきて世界が滅亡しそうになって少女が身を投げ出して世界を救う、とかバルス!でラピュタの崩壊とともに悪が成敗されるとか、そういったものは『のだめ』には全然必要ないと思ってて、なのにパリ編は結構そういった流れがくるんじゃないか?という危惧がバンバンで戦々恐々としていたから、駆け足すぎたエンディングの方がずいぶんとマシに見れた。
ワタシはもともとそういったマンガじゃなかったじゃない?と思いながら後半読んでいた。ほっこりと和むような気持ちにしてくれるのは嬉しいが、大きな感動は全然求めていなかったのだ。明るく楽しいキャラクタが生き生きとした面白マンガとして終焉することを期待していたのである。

着地を気にしすぎたら長編マンガなんて読めない、というのはワタシなりの哲学なのだ。作者がそう締めたかったならそれで全然構わないと思う。その後のつきあいはワタシが決めるだけだ。終わり良ければすべて良し、というのは、結婚が恋愛のゴールというのと同じだと思う。

『のだめカンタービレ』は概ね面白かった。なかなかの怪作だったと思う。


パリ編について その1

日本編はシリアスな要素もあるがそれをはるかに上回る青春お笑いものの要素の嵐だ。若者の純粋な向上心や誠実な友情なども笑いをベースにしつつ多く描かれている。のだめと千秋の恋が前面に押し出されすぎずにひとつの要素として上手く盛り込まれていると思う。

一方パリ編に入ると、シビアだったりシリアスだったりする要素がどうしても多くなってしまい、ただ楽しんで読むにはちょっとばかり難しいところも多々ある。もちろん過酷に山あり谷ありのドラマチックなマンガというのは世に相当数存在するが、『のだめカンタービレ』については日本編を読むノリが自分の中に出来上がってしまっていたから、パリ編はちょっと気軽に読めない感じを持った。パリ編は蛇足、とまではいわないけれど、日本編が中篇としてのなかなかの完成度だと思うので、例えば日本編しか読まなかったとして、そこで読むのを終了してもなんら不可解な点はないのだ。

パリ編はエピソードごとだけ見ると面白いところは多くあった。ただ通読すると感じるのは、手のひらからサラサラと零れ落ちていくような感覚だ。
話が進むにしたがっていろいろと山岳コースが設定されているが、エピソードとして読むと一旦山をクリアしてるように見える。しかし全体で見るとまだまだ登り道なわけだ。コースに見立てるとそれはいたって普通なわけだが、パリ編というコースはマラソンというよりは短距離を何本も走っている感じがとても強い。
スピーディな展開といえば聞こえはいいがこれはそうではなくて、エピソード間のテンポが一環しないことに原因があると思われる。転調がしっくりこないのはまずい。そしてエピソード内において、じっくりと描写すればもっと深みが出ただろうに駆け足で過ぎて残念なものもある。つまりはバランスがあまり良くないところが気になるのだ。それが原因だろうか、少しずつダブル主人公の気持ちに寄り添いにくくなってしまった。


日本編について その2

初期ののだめはまさに変人である。
女の子云々というよりも生態がもはや動物奇想天外状態である。いくら千秋が博愛精神に富んでいるとはいえ、よくぞ警察に通報しなかったものだ。のだめの「千秋センパイ好きデスーーー!」は正直なところ子供の遊びにしか見えない。

転機はシュトレーゼマンと千秋によるラフマニノフのピアノ協奏曲2番だった。これが直接的にのだめを音楽に向き合わせることになったわけではなかったが、確実にのだめの心に一石が投じられたわけである。これ以降さらに真剣に音楽に正面から取り組む千秋を見つめるのだめは、動物奇想天外なりに千秋のことが本気で好きで、千秋のそばにずっといたいという気持ちだけでピアノに向き合い始めた。水面の波紋は確実にのだめを支配したわけである。ピアノを上手に弾ければ千秋のそばにずっといられる、という稚拙ながらも必死の想いだったのだろう。ただ急上昇思考があまりに強すぎて、そこは世の中簡単にはいきません。

マラドーナコンクール一連ののだめは可愛らしくもいじらしくもありながら逆に自分のご都合主義すぎるところも見られて、つまりはのだめの「ベーベちゃん」たる幼い精神面ががっつり描かれている。のだめを擁護する気にはならずされど叩く気にもならない、なかなかに読み手にも気合のいるところである。

千秋は果たしていつからのだめをひとりの女の子として見るようになったのだろう。
千秋は自分の音楽を誠実に作り上げていくことこそが、のだめに正面から音楽と向き合わせ高みを目指させる原動力となると信じて疑わなかった。自身も日本では一学生に過ぎなかったのに、そこまでのだめのピアノへの思い入れがあったわけだ。それはその人間に対してもなんらかの思い入れがなければあり得ない感情だと思う。
そのなんらかの感情が留学の誘いとなるわけだが、コンクールで失敗して落ち込むのだめにはその提案を素直に聞き入れる気持ちの余裕がなかった。音楽に真正面から向き合ったのに上手くいかなかった、もう自分は千秋には追いつけないという、独り失恋みたいな心境だったのだろう。実際のところは千秋が振られたも同然で、あきらめきれずに追いかけたわけだが。「大川ハグ」は素晴らしき少女マンガの定石だった。

しかし以降ふたりはフランスに渡ってからも同様の展開を繰り返すのだ。


日本編について その1

さて、左手。(それはもういい)

千秋真一は育ちの良い云わば上流階級の坊ちゃんである。オレ様のような尊大で横柄で傲慢な面が見られるが、実のところは上品な育ちの良さのおかげというより災いして、千秋がいうところの「ボランティア」、まるでノブレスオブリージュを惜しみなく発揮してしまう。いくら口では嫌そうに言いながらも結局はしっかりボランティアしてしまう千秋は、つまりは極上のお人好しである。

己のスタイルに確固たるポリシーがあり、トラウマによる心の傷を持ち、根本的な生真面目な性分のせいで、己の領分を頑なな壁で囲ってしまっていて、気が置けない関係を持たない青年だった千秋である。恋人はいたけれど、音楽の勉強を最優先しすぎて関係は破綻した。音楽に対する幼い頃からの恵まれた環境と教育、天分に恵まれた上で更に貪欲に努力する千秋は、尊敬や憧れの対象になるも逆に妬みの対象ともなる。ただ遠巻きに見つめられるだけの結局は淋しい学生だったのである。

ATフィールド全開の千秋の領分にいともあっさりと侵入したのがのだめである。
常識的な女の子の範疇を飛び越えたのだめは、千秋のATフィールドを簡単に突破してしまいボランティアをさせるようになってしまった。のだめの武器は破天荒でありながらも人を惹きつけてしまうなにかがあるピアノだった。のだめも千秋と「2台のピアノのためのソナタ」を連弾したことがきっかけでフォーリンラブしたのだから、互いの音楽に惹かれたわけだ。もっとも千秋は当初はのだめが弾くピアノに魅力を感じただけである。

のだめは「変態」と称せられるほどに常識離れした女の子だった。好きな男の前で少しでも自分を美しく可愛らしく見せよう、とかいう普通の女の子の考えとは無縁だった。のだめの基本的な生活能力の欠如が千秋のボランティア精神を呼び起こし、何故かいつもそばにいる状態になってしまった。それを結果的に許してしまったのは他でもない千秋自身であって、それは嫌いな人間や興味の対象にならない人間ならばあり得ないことなのだから、なんだかよくわからないのだめ引力が千秋に作用したのだろう。想像するに、長く孤立した学生生活を送っていた千秋は、やっぱり淋しかったはずである。不法侵入のようなのだめの接近は、迷惑でありながらも悩める青年の心に一石を投じたはずである。

のだめの急接近を雪崩式に許さざるを得なくなってからは数々の面々が千秋の周囲に集うようになった。
ロックなヴァイオリンの峰くん、踊るティンパニーの乙女な真澄ちゃん、アクの強いSオケの面々、彼らは千秋が望むわけでもないのに周囲に集ってしまった。千秋は自分を慕うそういった面々を迷惑がってはいても無視する下品さは持たないお人好しなのだ。

オーケストラはひとりでは鳴らない。人と交流せず、ひとりでいくら勉強だけしても、情緒は育たない。「音楽を人を尊敬してて、それが自分に返ってくる」姿を見せたシュトレーゼマンはエロ師匠でありながらも立派な巨匠の教えを弟子に見せた。
シュトレーゼマンはのだめにもひとつの忠告とも言うべき教えを残す。「今のままじゃ千秋とはいっしょにいれないね」この言葉がやがてのだめを本気でピアノに向きあわせるきっかけになる。


最終巻感想2

あー、なんか誤字チェックで読み直したら、なんか所長をむやみに擁護してるみたいだなー。そーいうんじゃねんだよー。わかってくれるかなー。わかんないよなー。いや、わかってくれる人もいるかもね。それでいいや。ワタシをわかってよ!と酒を飲んでは暴れたり、創作活動にぶつけてみたり、恋人にあたってみたりした若かった日々が、思わず懐かしくなる師走。のだめネタは何故か一杯飲まなきゃ書けないんだよね、不思議。それは自分の甘酸っぱい若い日々を思い出してなのかしらん?

かなり話がずれてきたのでこのへんで止めるけど、『のだめ』の結末に納得がいかなくて、思わずネットの海に飛び込んで批判の大声をあげる人々がまあ結構多いみたいで、別に全然構わないけれどでもその労力を他にまわせばいいのに、とやっぱり思って書いてみた。批判とか疲れないのかな。楽しめばいいのに、って思う、自分の良いように捉えて。マンセーすぎるのも気持ち悪いけどね。だって創作だからさ。ホントにつまらなかったんだったら、キレイサッパーリ忘れてしまえばいいだけなのだ。だって娯楽なんだから。

改めて言うのもなんですが、萌えとかっていうのはあくまで脳内で済ませて、現実にまで引っ張らない方がいいっす。当たり前だけど。それを逃避と人は言う。妄想はあくまで妄想。目をつぶってみたり逆に体当たりしてみる現実の方が、厳しくとも素晴らしきものがあなたを待ち受けてるのかもしれませんですよ、とワタシは思う。
ワタシは相当に妄想壁のある逃避ひきこもりタイプですが、そのワタシが生身のほうがいいっすっていうんだから、やっぱりそうだと思う。すごい自信過剰?いや、これ勝ち組とか負け組みの話じゃないです。エヴァじゃないけど、逃げちゃダメだ、というより、逃げてもなんもありゃせん、って言ったところ。逃げた方がいい場合だってありますよ、当然。身の危険をものすごい感じる、とかね。でも大抵の、緊急の場合以外に、逃げてしまったその先に待つは虚無だったり。ほれ、のだめのエンディングに辻褄合ったじゃーん。ほほほ、自画自賛。

個別のキャラクタについては後に長々と述べるつもりですが、とにかくのだめは音楽と千秋から逃避したところで、待ってるのは小さな充足と虚無だったはず。諦めの先に落胆の上での納得はあっても満足はないです。別の道を選んだ先はまた次元の変わる話。でもそれも諦めの先の納得の場合が多いよね。
のだめには目先に厳しく孤独で辛い戦いが待っていようとも必ずやその更に先には大きな喜び、楽しみ、エクスタシーが両手を広げて待っている、と信じて疑わない恋人や友人、指導者が周囲に存在するのです。才能を与えられた存在、それは当事者にとってはありがた迷惑かもしれないけれど、リュカが言ったところの「おじいちゃんが、僕の才能は神さまがくれたんだから、ちゃんと世のため人のために使いなさいって言ってたよ!」なわけです。万民に与えられるわけではない素晴らしきもの。

のだめが音楽家として独り立ちすることと千秋との恋は別物だから。陳腐な言い方だが、「仕事と恋の両立」みたいな問題ですかね。こういうのはわりと若いと分けるのが難しいことです。舞台で恋人を演じたふたりが現実でも恋に落ちて、でもそれがどうにも長続きしなかった、っていうのがわりと近い気もする。
時には重なり、時には並行に、時には平行に。ふたりが同じく生きようとする道はそういった道なのデス。ガンバレ!若者!とミルヒーよろしくツヤツヤしたワタシの最終巻感想でした。



最終巻感想1

さて。
「さて」と言いながら左手をあげる友人が昔いて。「その手はなに?」と問うと「さて、だから左手、サテ。」と答えた彼女は元気だろうか。(誤字チェック現在、サテと見てサティに見えたワタシ。うおー、サティはワタシの青春じゃーっ。Je te Veuxっつーの、みたいな。)

閑話休題。『のだめカンタービレ』総括を書こうと決めて、いきなり最終巻の感想から。

「2台のピアノのためのソナタ」おお、原点回帰だ。

のだめと千秋でピアノ協奏曲、なんてことだったらワタシはこれまでの『のだめ』を投げ捨てていたかもしれん。そんなベタな、少女マンガの王道みたいなオチは絶対絶対許せん。チューして終わり、みたいなベタさは許す。でもふたりの将来は見事に大成功!みたいなのは砂吐きますってんですよ。そこは可能性を匂わすだけで十分なのデス。読者の勝手な想像というよりは妄想の余地がある方が良い。

最終話は力技のまとめ感が確かにかなりある。けれど長編の最終話なんていうのは所詮こういった類のものになるのが当然ともいえる。読者すべてが納得のいくようなものというのはありえない。それは特定のキャラクタへの萌えだったり、読者各々の味付けの好みがあったり、そういったものが賛否両論を生むわけである。
全23巻という長編に属するマンガを読んできた読者にとって、作者の描いたエンディングへの満足感度は特に重要であろう。こんなに長くつきあってきたのだから、という執着から、である。

創作において、作家の意図を100%読者が理解するのは不可能だとワタシは思っている。これはワタシの経験上に基づく結論だ。伝わらないのは、それは作家自身の技量が問題であることがもちろんあるけれど、受け取る側の感情が作家とは別の個体のものであることが最大の要因であると思う。作家が意図せぬ以上に受け取り側が脳内補完してみたり、解釈の思わぬ誤解があって然るべきだからだ。
作家がノリだけで描いてしまうエッセンスもあろう。辻褄合わせのために強引に纏め描くこともあろう。マンガならば長期連載の果てに画柄まで変化することも多くある。それらを読者が如何に寛容に受け止め、如何に己の中で気持ちよく消化するか、どうにも描写が足りないように思えた部分を如何に己の良いように補完するか、である。この器量は楽しめるかどうかに大きく影響するのだ。何故読者にその努力を要するか、それは娯楽だからである。
所詮マンガである。大衆娯楽である。これを日本が誇る文化とする風潮はそれはそれで結構だが、日常の多大なストレスやらから解放されたいために手近な娯楽としてマンガを手にするならば、読者も如何に自分の都合の良いように読むかが大変重要である。楽しむために都合よく使ったり取捨選択すれば良い。エンタテイメントなんだぞ。現代、ドえらく祭り上げられた小説化先生だって、当時はスキャンダルやらに塗れた流行作家だったりしたわけなんだから。文化っていうのは、そういったものなんじゃないのかな。



待ちが長かった

当方、単行本派です。コミックス派と言うべきなのだろうけれど古典的言語、単行本派。

『のだめカンタービレ』23巻。ファイナルだあぁぁぁ。連載終了は公式サイトでもあちらこちらのネタバレ感想でも知ってましたけどね。単行本派にとっては、この23巻が世に出てこそのファイナルでございますですよー。
面白かったなー。そして淋しいなー。


本屋で初めて表紙を見た時、ものすごい気になった。二ノ宮知子というマンガ家とそれまでおつきあいがなかったので、一体どんなマンガなんだろうかと何度も手に取って、表表紙裏表紙を長く見つめた。もう全然その世界が想像できなかった。笑えるクラシックマンガ?音大生の青春もの?コメディー?サパーリワカリマセーン。

『のだめカンタービレ』が世に登場してそれからの数年間、ワタシの生活はちょっとハードだった。ちょっと、というか結構いろいろ別に人生でそんなに経験しなくてもいいようなこともあったりして、正直あまりマンガどころじゃあなかった。癒しを求めて大好きな本屋へ足をのばしても、衝動買いになかなか踏み切れないくらいに切迫して守りに入らざるを得ない状態だったと現在推測する。だから『のだめカンタービレ』はいつも本屋で手にとって、表紙を長く長く見つめ、やがて諦めてそっと元に戻す、を繰り返すだけのつきあいだった。一体何年そうしていただろうか。
いろいろなことが良いか悪いかよくわかんない結末を迎えたりしつつその何年かをどうにかやり過ごし、ええい自分に褒美じゃと思い切って1巻だけ購入した。お、面白いじゃねーか!うおーやっぱりこんなに面白かったんじゃねーかー!
そこで通常のワタシならば一気に既刊すべてを大人買いするところなのだが、自重した。身重だったのだ。それは実際いつ何時何が起こるかわかったもんじゃないものだという実体験がワタシを押しとどめた。一子目は超難産だったのだ。無事に済んだら、を自分への励ましの言葉にした。
二子目は結果安産だった。ほっとしたのもつかの間、家の世話と久々の新生児の世話でなかなかにてんてこまいのあっぷあっぷって感じで、自分のことは後回しというよりも自分のターン全然まわってこず、みたいな日々突入。当然の事態なわけなんだけれど。
で、そういった日々にも慣れてきた産後3ヶ月頃、ワタシのタガは外れましたよ。相方に訴えたのであります。ものすごくずっと我慢したマンガを今是非に大人買いしとうございますですが、いやとは言わせませんですわよ、アマゾンさんヨロシコ、って具合に。
そして届いたのが当時既刊13巻まででした。おお、やっとだー!ワタシが君たちに出会えぬ間に、君たちはパリに行ってしまったのだなー、としみじみ感慨深かったものでした。



いらっしゃいませ。

ツモ

Author:ツモ
30代後半女。
→四十路突入。
→もうすぐバカボンのパパ越え。
→日本女性の平均寿命に向かって折り返し地点あたり。別にそこまで長く生きたいわけでもない。とりあえずの目標はこの先20年くらい。

暴れまわった娘時代の反動か、自宅にひきこもりがち。相方、娘二人と古都の端っこで地味に暮している。


気まぐれにしか更新しないくせに、記事がやたらと長くなる傾向にある。

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