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サバ

大島弓子のエッセイマンガ『グーグーだって猫である』の冒頭に、サバを見送ったときのことが描かれている。
その後グーグーなる子猫と出会って、ともに暮らす猫の数がどんどん増えていって、文字通り猫に囲まれた暮らしを送っているらしい。その登場する猫すべてが猫そのものの姿で描かれている。
たんなる表現方法の変化といえばそれまでなのだが、人の姿のサバは、読者には、氏にとって特別な存在だったのではないか、と思わされるのだ。
もちろん『グーグーだって猫である』の氏の飼い猫たちも大切な存在であることにはまったく間違いないだろうけれど、しかし読者の勝手な受け取り方で申し訳ないのだが、やはりサバは特別だったのだ。この感覚に氏の意はまったく関係がないのでもはや邪推じみていてなんなのだが。

ペットという家族の一員を亡くしていつか新しい家族を迎え入れたとき、亡くなったものへの悲しみと淋しさは薄れるわけではないがその気持ちをただ静かに心の奥に安置するかのようになる。亡くなったものも生きているものも、愛おしさは比較できるものでなく、同じように等しく大切な存在だ。

グーグーと暮らすようになって、無意識にグーグーをサバと呼んでしまうことに氏は罪悪感を感じるように描いている。しかしサバの世話の仕方や同居のルールなどで後悔を感じる氏は、グーグーとの暮らしで同じことを繰り返さないようにして、それについて「二度目の猫はトクである。死んだ猫の分まで大切にされる。ということはサバがグーグーを守っているのだ」と書いている。
これもまた真理だと思うのだ。

ペットの話と人間の話を同じにするのは違うかもしれないが、ワタシは自分の娘たちとの生活の中で近しいことを感じている。上の娘が成長するたびにすべてのことが初めてづくしで、いくら怠け者のワタシでもおたおたとバタバタと不器用に忙しく立ち回ることしかできないのだが、下の娘は上の娘のときのおさらいのようになんとなく楽にこなせることが多い。当たり前だが別の人間であるからして、繰り返しとはいえ別物なわけであり状況も異なることが多い。しかし気持ちに少しばかり余裕を感じることがあるのだ。
ワタシが上と下に感じる思いはそれぞれに別にあって一緒くたではないのだけれど、どちらがどう、というような愛情に強弱とか優劣はないわけである。

『グーグーだって猫である』は時が経つにつれて、サバの描写が無くなった。それは氏がサバを忘れたわけではなく、ただ静かに心の奥に安置するようになったことの表れなのではないかとワタシは思う。



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ツモ

Author:ツモ
30代後半女。
→四十路突入。
→もうすぐバカボンのパパ越え。
→日本女性の平均寿命に向かって折り返し地点あたり。別にそこまで長く生きたいわけでもない。とりあえずの目標はこの先20年くらい。

暴れまわった娘時代の反動か、自宅にひきこもりがち。相方、娘二人と古都の端っこで地味に暮している。


気まぐれにしか更新しないくせに、記事がやたらと長くなる傾向にある。

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